初めてBirdlandを観劇したときに感じたポールのその後、それは死だった。
でも、時間の経過とともに、本質的な感覚は変わらないのだけれど、少しだけ違うのかもと思う部分も生まれた。
それは、死とは本当に無なのだろうか、ということだ。
マーニー(もしかしたらポールかもしれないけれど)の言葉を借りると、死んでしまうと人との会話もできなければ、ぬくもりを感じることもできない。不安で寒くて怖い。死んだら猫を飼うこともできない。一般的には確かにそうかもしれない。
しかし、ポールには違う部分もある。世界中の人々に愛される音楽を遺したという点だ。
世界中の人が、家で、学校で、旅先でポールの音楽を聴く。それは場所を超え、時に親から子へ、あるいは学問として世代を超えて伝えられていく。あらゆる音楽がネットワークを通じてデータベースに集約されている。
それって、自分が創り出した音楽を通して、場所を問わず、時代も問わず、ある意味永遠の生を得ているのではないかと感じた。
芸術家って、時に命を削りながら自分の魂を作品に注ぎ込むようなところがあるんじゃないかなって思うんだけど。
ポールの音楽がある限り、ポールは生き続けているのではないかなって。そう思いました。
最後の場面のポールの言葉が気になっていた。
僕が見た世界を君が見れるようになるまで」みたいなニュアンスのやつ。
「君」がマーニーのことを指すのか、私たちのことを指すのか分からないけれど、そう考えると自分の中ではなんだかしっくりくるような気がした。
自分は物心ついてから大人になって一人暮らしをするまで、一人っ子だったこともあって家族に寄り添ってもらった記憶よりも、大人のエゴを押し付けられていた印象のほうが強かった。もちろん、そればかりではなく悪くない思い出もあるけれど。
こんなことを言うのはおこがましいけれど、なんとなく、あのころの自分の中の孤独感を勝手にポールに重ねていた。
そんなどこかあまり居心地のよくない中で、音楽はもちろんのこと、文学や映画、絵画など、少なくともそれらに触れることで少なくとも私は自分の世界を広げてもらった。
自分のいるここが全てではないと教えてもらった。旅行誌や世界の写真集に重ねてRiver Danceを聴くと、自分がダブリンからロシアやスペイン、ニューヨークを旅している気持ちになれた。クラシックは詳しくないけれど、国民楽派の人たちの曲は、そのときの時代や国風土を想起させてくれて好きだった。
そう考えると、音楽って、それを作った人の肉体は消えてしまっても、それを作ってくれた人の世界に連れて行ってくれるみたいで、なんかいいなって思って。
とりとめのない文章になってしまったけれど、うん。最後の場面についてそんなことをつらつらと考えていました。
そう考えるとね。ここ2作のアルバム、ポジティブな内容だったって1幕終盤で記者の取材で言及されてたり、2幕終盤でもポールとジョニーの口論で、お前の書いたあれ、クソだよみたいなこと言ってたけど、難しいことだと思う。
売れる作品、求められているもの、自分自身が表現したい世界。お金と芸術のバランス。ウケる作品を作らせるためにポールではなくレコード会社がそういうものを意図的にジョニーに作らせていた部分もあるかもしれない。
表現者にとって、自分の表現したい世界を自由に表現できないのはさぞかし苦痛だろうなと思う。特にロックとかはさ。
こういうことをつらつらと考えながら、以前もしもKAT-TUNという存在がなくなってしまったらって考えたことがあることを思い出した。
その時はなんだか怖くて、その考えに蓋をしてしまったのだけれど。
その答えが見つかった気がした。
今を大切に、そして彼らの作品を、自分が生きている限り愛し続けたいし、何らかの形で伝えていくことで、生かしていきたい。